期待値を計算すると に発散します。それでも実際の人間がこの賭けに支払う参加費は数円です。この極端な乖離が、経済学の期待効用理論を生んだ原点となりました。
親記事: 期待値
なぜこの補足が必要か
コインを投げ続け、 回目に初めて裏が出ると 円を受け取るゲームがあります(表が出るたびに賞金が倍増する構造です)。期待値の定義()に従って計算すると、答えは に発散します。「期待値が無限大なら参加費がいくらでも正当化される」というのが古典的期待値原理の結論ですが、歴史上の数学者も現実の人間も、このゲームに高額を払おうとしませんでした。
Nicolaus Bernoulli が 1713 年にフランスの数学者 Pierre Rémond de Montmort 宛の書簡でこの問題を提起し、その従兄弟 Daniel Bernoulli が 1738 年にサンクトペテルブルク帝室科学アカデミー紀要(Commentarii Academiae Scientiarum Imperialis Petropolitanae 第 5 巻)で対数効用による解決を発表しました。ゲームの名前はこの発表の場所に由来します。
この反例が経済学にもたらした影響は 2 つあります。第 1 に、「期待値の最大化」は合理的意思決定の唯一の基準ではないという認識。第 2 に、お金の額そのものではなく「お金から得られる満足度の期待値」で判断するという期待効用理論の誕生です。限界効用逓減・リスク回避・ポートフォリオ最適化など、現代金融理論の基礎概念はこの問題から系譜が続いています。stats-06 の本筋(期待値の線形性・二項分布)を止めずに別記事に切り出したのは、この系譜を追うには相当の紙幅が必要だからです。
賭けのルールと期待値の発散
ゲームのルール
コインを 1 枚用意します。コインを繰り返し投げ、初めて裏が出た時点でゲームが終了し、賞金を受け取ります。賞金の額は、終了したときの投擲回数に応じて決まります。
具体的に追ってみましょう。コインを 3 回投げて「表・表・裏」となった場合、(初めて裏が出るまでの回数)で、受け取る賞金は 円です。 なら 1 回目で裏が出たので賞金は 円。 なら賞金は 円になります。表が続けば続くほど賞金が指数的に大きくなる構造です。
の導出
となる( 回目に初めて裏が出る)確率を求めます。条件は「1 回目から 回目まで連続して表が出て、 回目だけ裏が出る」ことです。各回の投擲は独立で、表の確率・裏の確率ともに だから
のとき 、 のとき 、と指数的に減少していきます。賞金額を と置くと です。
各 の期待値への寄与
賞金 と確率 の積が各 の「期待値への寄与」になります。
| 投擲回数 | 賞金 (円) | 確率 | 期待値への寄与 |
|---|---|---|---|
| 1 | 2 | 1/2 | 1 |
| 2 | 4 | 1/4 | 1 |
| 3 | 8 | 1/8 | 1 |
| 4 | 16 | 1/16 | 1 |
| 5 | 32 | 1/32 | 1 |
| 1 |
と がちょうど打ち消し合い、積は で一定です。「賞金は増えているが確率はそれと全く同じ速度で減る」という構造が、この表で一目でわかります。
期待値が に発散する
stats-06 の期待値の定義()をそのまま適用します。
各項が 1 なので、項の数が無限になるにつれて和は際限なく増えていきます。「期待値が無限大」とはこの和が有限の値に収束しない、という意味です。
と「未定義」は別物です。 は へ発散するので値は明確に「正の無限大」です。値が存在しない( と が混ざる不定形)のとは異なります。Cauchy 分布の期待値が未定義になるのは後者の状況で、stats-06 節 9 で別途言及しています。
反直感
期待値原理が「期待値を最大化するように行動せよ」という規範なら、このゲームへの参加費は まで払う価値があることになります。1 億円の参加費でも払うべきだ、という結論が出ます。しかし実験でも歴史的な記録でも、実際の人間はこのゲームに数十円から数百円しか払いません。期待値原理だけでは人間の意思決定を記述できない、という強い反証です。
Daniel Bernoulli 1738 の解決: 期待効用
発想の転換
Daniel Bernoulli の提案は「賞金額 の期待値を見るのではなく、賞金額から得られる満足度(効用)の期待値で意思決定する」という主張です。
効用関数 は「お金 から得られる満足度を数値化した関数」です。Bernoulli が選んだのは自然対数 (経済学の慣例で底はネイピア数 ()、すなわち )です。期待効用 は「もらえる満足度の期待値」と読みます。
の計算
初期所持金 (単純化)の場合、 のときの賞金は 円なので
だから
ここで という事実を使います(導出は以下の折り畳みを参照)。
計算 の導出(等比級数の微分)
等比級数の公式 ()の両辺を で微分すると、次の式が得られます。
両辺に を掛けると、次のようになります。
を代入すると、次の値が得られます。
したがって
この和は有限の値に収まりました。対数効用で見ると、このゲームの「平均的な満足度」は という有限の数値です。
確実等価額 円
期待効用 と同じ満足度を確実に与える金額 (確実等価額)は、 を解けば求まります。
対数効用で測れば、このゲームと等価な確実金額は 4 円です。
数字が持つ意味
のとき賞金は 円ですが、その確率は です。 なら賞金は 円(約 100 万円)ですが確率は 。「億円を超える賞金も確率は天文学的に低い」という現実のゲームとして考えれば、4 円という確実等価額は直感とそれほどかけ離れていません。期待値計算は確率の低い高額賞金の寄与を均等に加算し続けますが、対数効用は高額になるほど満足度の増加が鈍るため、天文学的に低確率の高額賞金の寄与が圧縮されます。
なぜ凹関数なのか: 限界効用逓減とリスク回避
限界効用逓減
対数は Bernoulli が例として選んだ関数にすぎません。解決を支えているのは の特定の性質です。
1 万円もらう嬉しさを考えてみましょう。所持金が 1 万円のときの 1 万円の追加と、所持金が 1 億円のときの 1 万円の追加では、嬉しさが違います。前者の方が大きいです。「追加的なお金から得られる満足度の増加分(限界効用)が、所持金が増えるほど小さくなる」という性質が限界効用逓減です。これを関数で表すと、傾きが右に行くほど減少する形になります。つまり関数の形が「上に凸(凹関数)」になります。 が数式での表現です。
のグラフを描くと、右上がりですが傾きが減少していきます。 から への変化では ですが、 から への変化では にすぎません。これが対数が「限界効用逓減を表す凹関数」として機能する理由です。
Jensen の不等式とリスク回避
凹関数 に対して一般に成り立つ不等式があります。
計算Jensen の不等式の証明(凹関数の定義から)
このリスク回避性が出る条件は「 が凹関数」だけで、 でなくても構いません。CRRA(一定の相対的リスク回避度)と呼ばれる効用関数族 (、)も凹関数で、 の極限が に一致します。CRRA 族の任意の でサンクトペテルブルクのゲームに対する確実等価額は有限の値になります。これが「対数を取ったから解決した」のではなく「凹関数で測ったから解決した」という結論です。
alphaviz で確認する: 賞金と期待値寄与
各 での賞金 (青)と期待値への寄与 (赤)を から まで並べた図です。縦軸は円単位の線形スケールで、賞金が とともに指数的に増大する様子と、寄与が一定のまま横並びになる対比を直接確認できます。
青いドット(賞金)は の 2 円から の 1024 円まで、 が 1 増えるごとに前の 2 倍の高さへ跳び上がります。賞金は指数的に増大します。
赤いドット(期待値への寄与)は から まで一貫して のまま横一直線に並びます。賞金が 2 倍に増えても、確率がちょうど半分になるため積は常に になります。各項が なので、 から まで足し続ければ和は際限なく大きくなります。「なぜ期待値が発散するか」が、この横一直線の赤いドットの無限の積み重ねとして見えます。
確率系列()は の 0.5 から の まで急激に小さくなります。この系列は線形スケールでは 近傍に密集して視覚的に区別できないため、図には含めていません。確率の数値は前掲の表を参照してください。
現代の解釈: パラドックスは解決されたのか
Super St. Petersburg の反例
Bernoulli の対数効用は完全な解決ではありません。Karl Menger が 1934 年に Zeitschrift für Nationalökonomie 第 5 巻で示したのは、賞金を ( の 乗)に変えた「Super St. Petersburg」では対数効用でも期待効用が発散するという事実です。
賞金の増え方が速すぎると、対数による圧縮でも追いつきません。この結果は「どんな単調増加の効用関数でも、賞金の増え方を速くすれば同じ問題が再発する」という一般化を示唆しており、「対数効用で解決」という主張が効用関数の選び方に依存している点を露わにしました。
Menger (1934) の指摘後、パラドックスへの対応として大きく 2 つの立場に分かれました。(1) 有界効用関数: 効用 に上限を設けることでどんな賞金体系でも期待効用を有限に収めます。(2) 現実的な打ち切り: 銀行の支払い能力有限・プレイヤーの寿命有限を前提とすると項が実質的に打ち切られ期待値も有限になります。現代経済学ではいずれの立場も支持者を持ち、「どちらが正しいか」よりも「どの仮定の下で議論するか」という枠組みの選択として扱われます。Aumann (1977) や Samuelson (1977) の 20 世紀後半の発展は本記事の紙幅外です。
親記事に戻る・関連リンク
stats-06 に戻るときは、節 9「期待値が定義できない例」以降から再開してください。本補足で扱った「対数効用」「リスク回避」の概念は、stats-06 の期待値定義()を土台として、その上に積み重なる理論です。
この記事で初出した用語(期待効用・効用関数・リスク回避・Jensen の不等式・限界効用逓減)は以下の用語辞典に個別項目があります。Kelly 基準入門は期待効用理論の金融応用として本補足の延長線上にあります。
関連リンク:
- 親記事: 期待値
- 関連用語: 期待効用(stats-glossary-expected-utility)
- 関連用語: リスク回避(stats-glossary-risk-aversion)
- 関連用語: 効用関数(stats-glossary-utility-function)
- 関連用語: Jensen の不等式(stats-glossary-jensen-inequality)
- 関連用語: 限界効用逓減(stats-glossary-diminishing-marginal-utility)
- 関連補足: Cauchy 分布と期待値の未定義(stats-supplement-cauchy-distribution-undefined-expectation)
- 関連実践: Kelly 基準入門(stats-practice-kelly-criterion-intro)