期待値(expected value)とは、確率変数が取りうる各値にその確率を重みとして掛け合わせて足し合わせた値です。長期的に試行を繰り返したときの観測平均の収束先を表します。
定義
確率変数 X が有限個または可算個の値 x1,x2,… を取る離散型のとき、期待値は
で定義されます。P(X=xi) は確率変数 X が値 xi を取る確率です。
確率変数 X が確率密度関数 f(x) を持つ連続型のとき、期待値は
で定義されます。離散の ∑ixiP(X=xi) と見比べると、P(X=xi) が f(x)dx に、∑ が ∫ に置き換わった構造です。
記号の使い分けについて。X(大文字)は確率変数で、試行前にはどの値になるかが定まっていない量を表す箱のようなものです。xi(小文字)は確率変数が実際に取りうる具体的な値(実現値)です。E[⋅] は期待値演算子で、入力として確率変数を受け取り、スカラー値を返します。
性質
- 長期平均との一致: 独立同分布に従う確率変数を繰り返し観測したとき、標本平均は確率収束の意味で E[X] に近づきます(大数の法則)。サイコロを 10,000 回振った観測平均が 3.499 付近に落ち着くのはこの帰結です。
- 線形性: a, b, c を定数とするとき、E[aX+bY+c]=aE[X]+bE[Y]+c が成立します。X と Y の独立性は不要です。
- 単調性: X≤Y がほぼ確実に成り立つならば、E[X]≤E[Y] です。
- 実現しない値を取りうる: サイコロの E[X]=3.5 のように、X が実際には取らない値が期待値になることがあります。
- 常に有限とは限らない: 期待値が定義されないケースが存在します(後述)。
視覚的に見る
サイコロを 1 回振るとき、出目 X は 1,2,3,4,5,6 のいずれかで、それぞれの確率は 1/6 です。各出目 xi に確率 1/6 を掛けて合計すると、E[X]=(1+2+3+4+5+6)/6=3.5 になります。
赤の破線が期待値 3.5 の位置です。6 本の棒の「重心」として、その位置に破線が落ち着いています。3.5 はサイコロのどの面にも刻まれていませんが、重み付き和として正確に定まります。各棒の面積(高さ = 確率 1/6)が全て等しいため、重心はちょうど中点の 3.5 になります。もし出目 6 の確率だけが高ければ破線は右に動き、出目 1 の確率だけが高ければ左に動きます。
実世界での使われ方
保険料の設計: 損害保険の純保険料は「損害額 × 発生確率」の期待値として計算されます。たとえば交通事故で 100 万円の損害が発生する確率が 0.2%(= 0.002)であれば、その期待損害額は 2,000 円です。保険会社は過去の損害データから各事故シナリオの発生確率と損害額を推定し、その期待損害額に経費・利潤を上乗せして保険料を設定します。金融庁「保険商品の提供に係る情報提供の在り方等に関する報告書」でも期待損害額を基礎とした透明性ある保険料設定が求められています。
株式の期待リターン推定: 過去 N 日のリターン r1,r2,…,rN の標本平均 rˉ=∑t=1Nrt/N は、期待リターン E[R] の推定量として実務で広く使われます。日本取引所グループ「株式市況統計」でも日次・週次・月次の収益率データが公開されており、期待リターン推定の基礎データとして参照されます。
世帯所得の平均と中央値: 厚生労働省「2024 年国民生活基礎調査」では 2023 年の全世帯所得の平均(度数分布から推定された期待値)が 536 万円、中央値が 410 万円と公表されています。その差は 126 万円で、分布が右に歪んでいるため平均が中央値を上回ります。期待値と中央値の乖離そのものが分布の非対称性の指標になっています。高所得世帯が平均を引き上げる構造は、期待値が外れ値の影響を受けることの実例です。
強化学習の報酬最大化: DQN・AlphaGo 等の強化学習エージェントは、割引累積報酬の期待値 E[∑t=0∞γtrt] を最大化する方策を学習します(γ∈(0,1) は割引率、rt は時刻 t での報酬)。環境が確率的なため、同じ行動をとっても報酬は毎回異なります。その不確実性を平均化する演算として期待値が使われ、「期待値の最大化」が学習の目標として定式化されています。
深掘り
Lebesgue 積分による統一や存在条件は L2 以上の補足です。離散の加重平均としての期待値だけなら不要です。
▶計算発展(L2以上): 連続型・存在条件・代数的性質
連続型期待値と Lebesgue 積分による統一
連続型の定義式 E[X]=∫−∞∞xf(x)dx は Riemann 積分の形ですが、より一般的な確率論では Lebesgue 積分による定義が採用されます。
ここで Ω は標本空間(起こりうるすべての結果の集合)、ω は個別の結果、P は確率測度です。この定義は離散型・連続型・混合型(連続と離散が混在する分布)のすべてを同一の式で扱えます。
累積分布関数 F(x)=P(X≤x) を使った Riemann-Stieltjes 積分
も同等で、離散型では dF(x) が各点に確率の塊を持ち、連続型では dF(x)=f(x)dx になります。伊藤清『確率論』(岩波書店)はこの統一形式を基礎においています。
期待値の存在条件: E[∣X∣]<∞
期待値が「定義される」ためには、絶対値の期待値が有限であること、すなわち
が必要です。この条件が崩れると、正の側の寄与と負の側の寄与がともに発散して +∞−∞ という不定形になり、期待値は定義されません。
典型例が Cauchy 分布です。確率密度関数 f(x)=1/(π(1+x2)) に対して
の積分は +∞ に発散します。したがって Cauchy 分布の期待値は未定義です。期待値が存在しない確率変数には大数の法則が適用できず、標本平均が収束先を持たない点で推測統計上の重要な区別になります。
期待値演算子の代数的性質
E[⋅] は線形演算子です。定数 a,b,c と確率変数 X,Y に対して以下が成立します(独立性は不要)。
単調性として、X≤Y がほぼ確実(almost surely)に成立するならば E[X]≤E[Y] です。
一般の関数 g については E[g(X)]=g(E[X]) である点に注意が必要です。たとえば
であり、両者の差が分散の定義式そのものです。
凸関数 φ に対しては Jensen の不等式
が成立します。φ(x)=x2 とすれば (E[X])2≤E[X2] が再現でき、V[X]≥0 が Jensen の不等式の特殊ケースとして出てきます。Jensen の不等式は金融の効用関数(凹関数)の議論やリスク中立確率の変換でも繰り返し登場します。
関連する用語
- 算術平均 — 標本平均 xˉ=∑xi/n は期待値 E[X] の推定量
- 中央値 — 期待値とは別の代表値。L1 絶対偏差を最小化する点
- 確率変数 — 期待値が定義される対象
- 実現値 — X(確率変数)と対になる、試行後に観測された値 x
- 期待値の線形性 — 独立性なしに E[X+Y]=E[X]+E[Y] が成立する性質
- ベルヌーイ分布 — E[X]=p が最もシンプルに確認できる分布
- 二項分布 — 線形性を使うと E[X]=np が 2 行で出る代表例
詳しくは
- stats-06: 期待値 — サイコロ 3.5 の違和感から線形性まで、直感を作る本編記事